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野外展(2012) 美術計画(2014) 3DAYS in 盛岡・展
MIWOTSUKUSHIシリーズ   
 
 
MIWOTSUKUSHIについて
01

 まず、題名のMIWOTSUKUSHIは「みをつくし=澪標」であり、川の河口などに港が開かれている場合、土砂の堆積により浅くて舟(船)の航行が不可能な場所が多く座礁の危険性があるため、比較的水深が深く航行可能な場所である澪との境界に並べて設置され、航路を示した道しるべであります。また、和歌では「身を尽くし」との掛詞で用いられる事もあり、その言葉通り、の意味も込められる言葉であります。

 私がその言葉を引用したのは、宮沢賢治『春と修羅』第二集 一六六 『薤露青』の冒頭からです。
 『薤露青』は賢治の詩で、一度鉛筆書きされたものを消しゴムで消し、賢治の中では没とした詩のようです。そのような詩でありながら、賢治自身が生前ほぼ無名に近かったこともあり、死後、研究が進む中で、消しゴムの消しが甘く結果的に残ってしまった詩で、未定稿ながら、重要な詩として今日残っているものだと思います。その重要性は、「銀河鉄道の夜」成立の緒現を思わせる詩の内容です。その冒頭に現れる「みをつくし」は、言わば、銀河を巡る死者の道行きを指し示す「道しるべ」として登場しているものと思います。
 そのような詩を私は以前から詩集の中に見つけ、そのような成立過程を含めて、好きな詩でした。

 2011.3.11 東日本大震災では、地震のみならず、津波によって多くの人々が亡くなったり、行方不明者になりました。そのとき、この詩を思い浮かべ、そのことによって死者を悼む祈りを捧げる気持ちになりました。
 また、自分は美術作家であり、あらためて、自分に出来ることはそのような祈りをも込めて作品を提示するということしかないのだという気持ちになりました。

 MIWOTSUKUSHIとして発表してきたインスタレーション作品は、自らの思考の中から生まれてきたというよりは、場所場所の存在性の中にある種の秩序を、形として浮かび上がるのを待って明示されることが、人間が利己性を超えて存在できる根拠とする自身の心情に沿うものであると考えています。
 場所場所が、何らかの作用によって自身の作品と関わりを持つ場所となるものであるならば、その場所とは自己と宇宙を対峙させるだけではなく、その宇宙こそ自己の存在の根源がある。その実感をどのように現すべきなのか。場所場所の混乱、風化、腐食を糧として何かを見いだすべきなのではないか。いずれにしてもそのような場所がもたらす印象は自ずと自身の内奥に呼応して、形を羽化し現れさせる。
 その場所の有り様の中に形を見つけ、あるいは与え、ある種の図形を提示することは、星空の中に星座を見つけることに似てい、その比喩を作品の底に透過させることは『薤露青』の冒頭と呼応して自然な連想でした。
 その星座を道しるべにして宇宙を巡り、どこかへ行く。行くのは誰かと言えば、賢治の詩の中では、身近な死者なのですが、結局、死者がどこへ行くのかは、詩の中でも言及されたどおり、わからないままであり、むしろそれが救いでもある。巡るのは、自身の思いであり、祈りであり、死者の道行きの平安を思う。そのことに尽きると思う。
 見いだされた図形の中に人々は具形を見いだし、関係性を構築し、物語を加えると、神話となっていくのかもしれない。
 私自身はあまり意味を見いださず、ただの簡素な図形の中に根源としての空間を意識している程度に留め、むしろ意味を剥奪して晒される目の感情を汲み取ってみたいと思っています。そのとき比喩はある程度姿は現すかもしれないが、意味というものは遥か彼方の時空の書架にあり、いつしか思わぬところで、邂逅できるものであれば、それはそれで本当の幸いというものかもしれない。

以下『薤露青』解説と詩
『賢治の事務所』http://www.bekkoame.ne.jp/~kakurai/index.html  より

『春と修羅』第二集の中に「薤露青」と題された詩があります。これは、 いったん下書稿として書かれたのち、全文を消しゴムで抹消されたものですが、かなりの文字が消えずに 残っており、研究者の手により判読され詩集などに収められているものです。


『春と修羅』第二集 一六六 『薤露青』

みをつくしの列をなつかしくうかべ           
薤露青の聖らかな空明のなかを             
たえずさびしく湧き鳴りながら             
よもすがら南十字へながれる水よ            
岸のまっくろなくるみばやしのなかでは         
いま膨大なわかちがたい夜の呼吸から          
銀の分子が析出される                 
  ……みをつくしの影はうつくしく水にうつり     
    プリオシンコーストに反射して崩れてくる波は  
    ときどきかすかな燐光をなげる……       
橋板や空がいきなりいままた明るくなるのは       
この旱天のどこからかくるいなびかりらしい       
水よわたくしの胸いっぱいの              
やり場所のないかなしさを               
はるかなマジェランの星雲へとゞけてくれ        
そこには赤いいさり火がゆらぎ             
蠍がうす雲の上を這ふ                 
  ……たえず企画したえずかなしみ          
    たえず窮乏をつゞけながら           
    どこまでもながれて行くもの……        
この星の夜の大河の欄干はもう朽ちた          
わたくしはまた西のわづかな薄明の残りや        
うすい血紅瑪瑙をのぞみ                
しづかな鱗の呼吸をきく                
  ……なつかしい夢のみをつくし……         

声のいゝ製糸工場の工女たちが             
わたくしをあざけるやうに歌って行けば         
そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声が       
たしかに二つも入ってゐる               
  ……あの力いっぱいに               
    細い弱いのどからうたふ女の声だ……      
杉ばやしの上がいままた明るくなるのは         
そこから月が出ようとしてゐるので           
鳥はしきりにさわいでゐる               
  ……みをつくしらは夢の兵隊……          
南からまた電光がひらめけば              
さかなはアセチレンの匂をはく             
水は銀河の投影のやうに地平線までながれ        
灰いろはがねのそらの環                
  ……あゝ いとしくおもふものが          
    そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
    なんといふいゝことだらう……         
かなしさは空明から降り                
黒い鳥の鋭く過ぎるころ                
秋の鮎のさびの模様が                 
そらに白く数条わたる                 

この詩のタイトルにもなっている「薤露青(かいろせい)」とは、どのような意味で しょうか? 宮澤賢治語彙辞典の解説によれば、「薤露」の「薤(かい)」は「らっきょう」を、そして「露(ろ)」は文字どおり 「つゆ」を示し、直接的には「らっきょうの葉にたまった露」という意味になりますが、中国の故事により 「人命のはかなさのたとえ」として用いられる語とあります。そしてそれに「青」を加え、賢治の造語による色彩表現として 「ただの青さだけでない澄みきった悲哀のニュアンスが漂う」と解説されていました。

澪標(みおつくし、みをつくし、みおづくし、みおじるし)は、航路を示す日本の標識。

 


 
 
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