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鴨居玲について   
 
 
鴨居玲について
01

 鴨居玲とは、抽象画のようなものを描く僕にとっては,いかにも正反対な存在であり、忘れた頃に不意に横道から姿を現す昔知っていたじいさんで、不敵な面構えとちょっと上体を反らした姿が圧倒的な圧力でもって立ち現れる。それでいて、隠し通せない影のようなものも濃厚で、なんだかちょっとだけ僕を嫌な気分にさせてくれる。それでいて、出会ったらもうそこで視線をそらすことが出来ない、どうにも困った存在でもある。
 何か絵に関して、結局彼の描く絵のようなものが、人々に求められているのではないだろうかと思ってしまっている僕がいる。具象的な人物像、そしてそのフォルムだけではなく内面を描くことの出来る表現力を持った筆力。
 それに比べて、抽象画は作者側がどんな苦悩を抱いて絵に込めたとしても、その表出はあくまでも造形エッセンスによる表面による表面のためのオポチュニズムに満ちた感覚言語に終始する。そんなことはない。ロスコを見よ。強靭な悲劇性を纏う北壁の精神性を考えよ。しかし、分け入ろうとしても観者にゆだねる方便にしても、それは結局拒否の絶壁なのではないだろうか。向こう側はない。あるのはこちらの目をいかようにも見よと拒絶する真空の鏡面が存在するだけである。しかして抽象絵画の行方は交換可能な悲劇の結末を知ってしまった絶望を、新しいというキャッチコピーを添えた品をかえて塗り替えてきただけにすぎないのではないだろうか。そんなことを言ってみれば、自身の絵画に迷いが生じていることの証のようなものではあるが、向こう側にある何かを求めていかさざるを得ないような、その立ち位置をずらすことはやっぱり今の僕には出来ない。
 鴨居の絵の中には、作者自身を表すであろう肖像という特異性がある。彼には彼の内面がわかっていたのだろうか。
 内面とは何か。何が表出し、それが僕らに何を感じさせるのだろうか。
 日常を暮らす中での目の見える世界の表層をなぞることを拒否し、精神が感応する自宇宙の有り様を覗いていたのではないのだろうか。その自宇宙の内容そのものは僕にはわからない。彼の絵を見て何か自分の中の何かと感応するのを感じるだけだ。
 この世界は既に崩落し、精神の腐蝕の中にその向こう側、死をも覗き込む自分自身の有り様を鏡面そのものに表出させ、その表出そのものを絵画に表現することではなかったのか。表出と表現のスパイラルの地獄の中で、最もフォーカスされたのが、その顔であると思う。しまいにはその顔は躯の上部から切り取られ、自らの手に持て余し、本来あるべきところにはのっぺらぼうがあるばかり。その顔に、僕たちは自らの顔そのものを思い浮かべ、内なる自分自身の顔のなさに、真空の思考の中へ落ちていく。
 今一度思う。彼の描くような絵が、人々に求められるべきではないのだろうか。
 もう人々はのっぺらぼうだ。日々暮らす中で、求めてあるいは求めずも襲いくるあらゆる出来事とその対応に明け暮れるうちに、否、それは努めて視ないように自らを飼いならしていった結果であろうが、胸の内にあったものがいつからかどこからかこぼれ落ち、今ではその内にあったものが何であったか何を失っていったかわからなくなってしまった。静かに擦過傷の感覚のみが確かにあったはずのものの存在を指し示す印のようにいつまでも落ち着かない重痒い痛みをともなって苛立たせる。
 鴨居の描く顔は、なんだかそれをもう一度思い出せと言っているような。あるいは、ただその思いの中に反問しているような。

 
 
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